身内と他人の境とは

 お盆の時期になると施餓鬼供養をするお寺が多く、盂蘭盆経というお経をお坊さんが読む機会に遭遇する方もいらっしゃるかと思います。今回はこの盂蘭盆経の中に書かれている目連尊者の母親の話から「身内と他人の境」について考えていきたいと思います。

 盂蘭盆経には、お釈迦様の十大弟子のうちの一人である目連尊者のお話が書かれています。目連尊者は、母親を亡くした際、母親が死後どこの世界に生まれ変わったのか気になり、神通力で六道を隅々まで探して回ることにします。ここでいう六道とは、天界、人間界、修羅、畜生、餓鬼、地獄という6つの世界のことを指し、人は死後このどこかに生まれ変わるといわれております。

 「あの優しいお母さんのことだから、きっと天界に生まれ変わっているに違いない」と思い天界を探してみますがどこにも見当たりません。次に人間界をくまなく探してみるもののやはり見つかりません。修羅の世界にも畜生の世界にも生まれ変わっておらず、まさかと探してみた餓鬼道でついに母親を見つけます。

 母親は餓鬼として生まれ変わってしまったため、目連尊者が神通力で食べ物を母親に送ってもそれを口に入れようとした途端燃えて炭となってしまい食べることができず、水も飲むことができず大変苦しんでいます。何とかして母親を救いたいと思い、目連尊者はお釈迦様のもとへ訪れ、なぜ母親は餓鬼道に堕ちなければならなかったのか、どうしたら母親を餓鬼道から救えるのか尋ねます。

 すると、お釈迦様は、母親が餓鬼道に堕ちた理由も救う方法も教えてくれるのですが、この時お釈迦様が語られる母親が餓鬼道に堕ちた理由が「自分の子どもを優遇したから」ということでした。餓鬼道とは、むさぼりの心を持ち物惜しみをする人が堕ちる場所といわれています。母親の愛情いっぱいに育った目連尊者は、なぜ自分の母親がそのような場所に堕ちるのか理解できませんでした。

 実は、目連尊者の母親は、自分の子が大切なあまり自分の子へできるだけ多くを与えていました。その結果、ほかの子へ物惜しみをしたり、ほかの子どもを押しのけてでも自分の子どもが有利になってほしい、得をしてほしいと思い、行動していたのです。その心が母親を餓鬼道に堕としたのだ、とお釈迦様は説明したのです。

 身内びいきという言葉があるように、人間はどうしても自分の近しい人、親しい人に情を厚くしたいという想いが出てきてしまいます。現代においては、地域社会のコミュニティが小さくなったり消滅してしまった結果、この『身内』という概念で捉えられる範囲が今まで以上に狭くなってしまっている場合も少なくありません。つまり「自分とは関係ない人、自分に干渉してほしくないし自分も相手に干渉しない」=『他人』の範囲が一昔前より大きくなっている場合が往々にしてあるのです。

 一見すると全く関係していないようなものも含め、すべてのものが相互依存する形で成り立っているのがこの世である、と仏教は説いています。施餓鬼のお参りを機にそのような考えをもう一度想い起こし、自分にとって近しい人はもちろん、一見すると自分と関係のない人までが『身内』なんだという気持ちを持てば、『他人』に対する接し方も変わるでしょう。そう考える人が増えていけば、きっと今よりも過ごしやすい世の中になっていくのではないかと私は思います。

※北海道青年教師会ページの令和3年8月に掲載された法話です。

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