護摩堂
この建物は明治44年に大師堂として建立され、明治42年に高野山より頂戴した弘法大師像が祀られておりました。のちにこの弘法大師像は本堂へと移され、石狩川に祀られていた不動尊像(※)が大師堂に移されました。この大師堂は現在、護摩堂として2体の不動明王像をお祀りして毎月護摩祈祷をさせていただいております。
月例護摩祈祷の際は添え護摩木を受け付けております。護摩祈祷についてはこちらをご覧ください。

本尊:不動明王
1910年(明治43年)に石狩川十五号渡船場付近に建立されました。当時は石狩川が凍結し氷が厚くなってくると氷の上に柳の木の枝を敷き雪を乗せて水を撒いて、更に凍らせて『氷橋』を作り、冬場はその上を通行し奈井江と浦臼の横断をしていました。しかし、春先その氷橋が割れて多数の犠牲者が出た事故があり、その供養のために不動尊像が建立されました。金剛寺が現在の場所に移転した際、この不動尊像も移転されました。
山口誓子句碑
金剛寺境内のサハリン在留邦人の供養石柱の隣にたたずむ句碑があります。その句碑には次の句が刻まれています。
「夕焼けて 西の十萬億土 透く」
この俳句は現代俳壇の長老で文化功労者の故山口誓子の作品です。山口誓子は明治34年に生まれ、小中学校をサハリンで過ごしました。旧制高校時代から俳句に親しみ東大入学後本格的に句作を初めました。ホトトギス派の高浜虚子に師事し、昭和初期には水原秋櫻子、阿波野青畝、高野素十らと共に「4S」と称せられるほどの名声を上げました。
山口誓子の句碑は当時187ヶ所あり、この句碑が188番目の句碑となりました。奇しくもこの句は高野山にある山口誓子の句碑と同じでした。

山口誓子は浦臼に地縁がなかったにもかかわらず句碑が建てられた背景には、「サハリン」が大きく影響しておりました。
平成4年、当山住職である弘明がサハリン墓参団に参加した際、偶然にも樺太に縁故の深い山口誓子も参加をしておりました。高名な誓子のことを知った弘明は樺太ゆかりの一句を所望しました。墓参事業に弘明が携わっていることを誓子が知り、依頼を快諾したのでした。しかし、建立を前に誓子が死去したため、話が流れてしまいました。弘明は知人を介し誓子の遺族に連絡したところ、弘明との約束を遺族が知っており、誓子直筆の色紙を3枚頂戴することができました。
これに感激をし、その中の一句を碑に刻んだのが境内の句碑となって平成7年に完成し、現在も残されているのです。
(浦臼町百年史より引用)
弁天堂
友成士寿太郎氏が安芸厳島神社において祈願して自宅にてお祀りしていた真鍮製の幣を当山の鎮守といたしました。
当初は小さな祠に祀られていました。終戦後、鶴沼小学校に奉安殿(天皇陛下の写真と教育勅語を納めていた建物)として建てられていたものを移築し現在に至ります。

聖天堂
聖天堂の由来
於札内の西田真吉氏が四国八十八ヶ所を眼病平癒のために巡拝した際、85番慈眼寺にて霊験を感じたことがきっかけとされています。
その後、西田氏を中心に85番札所より分身を受けて西田氏所有地内に聖天堂を建立安置しました。
この聖天堂は「聖天さん」と呼ばれ、そのお祭りには大勢の人が集まり賑やかだったといわれております。その後新四国八十八ヶ所入口へと移転し、さらに昭和2年に金剛寺境内に移されました。昭和52年に新聖天堂を建立し再度新四国八十八ヶ所入口へと移転し現在に至ります。

聖天堂でのお参り

聖天堂では毎月1日と15日早朝にお参りをしております。
また、4月1日と9月1日は大祭の日と定め、毎年お参りをしております。
大祭について
- 聖天春季大祭
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4月1日
- 聖天秋季大祭
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9月1日
どちらも10時より聖天堂にて行っております。
聖天堂の場所
ぼけ封じ観音
檀信徒の皆様からの寄付により建立されました。

