彼岸の由来

 『暑さ寒さも彼岸まで』というような言葉もあるように、季節の変わり目といわれるのがお彼岸の時期です。お彼岸に墓参りをしたりお寺にお参りに行くというのは昔からの慣例ですが、もともとはどういう由来なのかあまり知られていないように感じます。そこで、今回はお彼岸の由来についてお話ししたいと思います。

目次

『彼岸』の由来

 彼岸は『到彼岸とうひがん』を表す『波羅蜜多(パーラミター)』から来たもので、『波羅蜜多』は修行の完成(=悟りの境地に到達すること)を意味します。昼と夜の時間が同じになる彼岸の中日は、お釈迦様が説いた『中道※1』を実践する上でもよい時期であること、また、彼岸の中日は太陽が真西に沈む日でもあり、その方角に向かって念仏を唱えれば西方浄土(=極楽)への往生が最も近くなると考えられていました。
しかし、彼岸に寺院等に参拝したり先祖供養を行う習慣はインドや中国にはないといわれており、上記の考えは日本で生まれたものであるようです。では、なぜ日本でそのような習慣が定着したのでしょうか?

民間信仰と仏教の融合

 これには、仏教が日本に渡来する前からあった自然に対する祈りが大きく関係しているようです。つまり、仏教が日本に渡来するより前から民間信仰として『太陽崇拝』が存在し、その信仰が仏教と融合して現在の彼岸の形になったというのが彼岸の由来のようです。

 日本では、昼と夜の時間が同じになる彼岸の時期に農作業が始められていました。農作業の始まりに際し、その年の豊作を願い太陽に向かってお祈りをしたと考えられています。
 長野の一部地域には『日天願にってんがん』という言葉が残っているらしく、『がん』と言われていたそうです。『日の願』が『日願ひがん』となり『彼岸』に変わっていったと民俗学の観点からは見られています。日本に仏教が渡来したのち、太陽を表す仏とみなされていた大日如来が太陽崇拝の対象となり、そのころ民間に浸透し始めていた念仏と合わさり、季節の変わり目となる彼岸に七日間夜通し念仏を唱え続ける百万遍念仏などが行われるようになりました。
一般に念仏というと阿弥陀如来を奉る「南無阿弥陀仏」が有名ですが、彼岸中に唱えられたのは『天道念仏※2』でした。(天道念仏の文言は「南無阿弥陀仏」や光明真言などいろいろあるようです)
時代が進むと、天道念仏は踊念仏に変化していきます。踊念仏とは、太鼓などをたたき念仏を唱えながら踊るものです。今でも一部の地域ではこの天道念仏踊りをする習慣が残っているようです。

彼岸にお墓参りに行くのはなぜ?

 これまでのところで、彼岸にお寺をお参りする理由はなんとなくわかったかと思いますが、「じゃあ、なんでお彼岸に墓参りに行くの?」という部分はまだ謎のままかと思います。これにはお彼岸の近くで行われていた『初午はつうま』という行事が関わっているようです。
 『初午』とは農作業を始める時期に山の神を田や畑に迎え、その年の豊作を祈る行事でした。山は、古くから亡くなった人が居る場所だと考えられていたため、山の神を祀ると同時に祖霊を祀るようになったようです。この初午が春の彼岸に近い時期であったため、太陽を祀る『彼岸』と山の神を祀る『初午』が融合し、彼岸にはお寺・お墓にお参りする」という習慣になったのです。

 このように『彼岸』は、古来からの信仰と仏教とが結び付き民衆の中に深く入り込んだ行事だといえます。今年のお彼岸は皆さんのお父さんお母さん、おじいさんおばあさんに思いを馳せながら自然の恵みに感謝するような期間にしていただければと思います。

参考画像)
①天道念仏踊の様子
②天道念仏を始める前に神主さんが祝詞(のりと)をあげており、民間信仰と神道、仏教がいかに深く結びついていたかがわかります。

参考動画)
福島県西郷村で行われている天道念仏の動画がありました

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