エンバーミングと供養を考える
近年、「エンバーミング」という言葉を耳にする機会が増えてきました。
エンバーミングとは、亡くなった方の身体に防腐・殺菌などの処置を施し、必要に応じて損傷した部分を修復し、生前に近い姿に整える遺体保全の技術です。
- 遠方で亡くなり、ご遺体を長距離搬送しなければならない
- 遠くに住む家族が帰ってくるまで、どうしても日数がかかる
- 事故などによって身体に大きな損傷があり、そのままでは家族との対面が難しい
このようなとき、エンバーミングが大きな意味を持ちます。
亡き人をできるだけ穏やかな姿に整え、家族が安心して最後のお別れをするために役立つことだと思います。
しかし、僧侶として葬儀に関わる中で、最近どうしても気になることがあります。
それは、
エンバーミングによって、故人と過ごす最後の時間が失われてはいないか。
ということです。
翌日の通夜に際し、エンバーミングを行うことについて
人が亡くなった日を1日目とすると、亡くなった翌日、あるいは翌々日に通夜、通夜の翌日に葬儀・火葬という流れになることは北海道において珍しくありません。
ところが、そのような短い日程であるにもかかわらず、
「ご遺体の腐敗が進まないように」
という理由で、エンバーミングが積極的に勧められるケースを目にすることがあります。
亡くなった方が安置されて間もなく、再びエンバーミングのために搬送される。
翌日が通夜であるにもかかわらず、故人が戻ってくるのは通夜当日の午前中もしくは昼頃。
私が枕経に伺っても、そこに故人はいません。当然、仮通夜もできません。
ご家族も、亡くなった方の顔をゆっくり見ることができない。
亡くなった直後の、最も大切な時間に、亡き人がそこにいないのです。
そんな場面に出会うたび、私は考えてしまいます。
いったい、何のためのエンバーミングなのだろう。
故人や遺族にとっての最善策とは
ここで考えてみたいことがあります。
それは、
「ご遺体の腐敗を防ぐためには、エンバーミングをしなければならないのか」
ということです。
ご遺体の状態を保つ方法は、エンバーミングだけではありません。
日本では従来から、ドライアイスなどを用いてご遺体を冷却し、火葬まで安置する方法が広く行われてきました。
もちろん、ドライアイスによる冷却とエンバーミングは同じものではありません。
エンバーミングは身体内部にまで処置を施すため、腐敗の進行を抑え、外観を長く保つという点では、冷却保存より高い効果を期待できます。
また、ご遺体の状態、亡くなった原因、気温や安置環境などによっては、短期間であってもより積極的な保全処置が望ましい場合もあるでしょう。
ですから、
「葬儀まで2、3日ならエンバーミングは必要ない」
と一律に言うつもりはありません。
しかし一方で、亡くなった翌日や翌々日に通夜を迎え、その翌日には火葬するという通常の日程で、ご遺体の状態にも特段の問題がないのであれば、ドライアイスによって火葬まで状態を保つという選択肢もあります。
それにもかかわらず、
「腐敗が進むから」「きれいな状態を保つために」
という説明だけで、エンバーミングが当然のように勧められるのであれば、私は少し疑問を感じます。
なぜなら、
「より確実に遺体を保存できる方法」と「故人や遺族にとって本当に必要な方法」は、必ずしも同じではないからです。
エンバーミングをすれば、ご遺体の状態をより長く安定して保てるでしょう。
しかし、その処置のために故人は専門施設へ搬送され、ご家族のもとから一定の時間離れなければなりません。
もし翌日がお通夜であるならば、その数時間、あるいは半日以上という時間は、亡くなってから火葬までに残された時間の中では決して短いものではありません。
そこで本来考えるべきなのは、
「どちらの方法がより高度か」
ということではなく、
「この故人に、この日程で、本当にその処置が必要なのか」
ということではないでしょうか。
ドライアイス等による冷却で十分に対応できるのか。
エンバーミングを行うことで、どのような利点があるのか。
そのために、故人が家族のもとを離れる時間はどのくらいになるのか。
そうしたことを十分に説明したうえで、ご家族が選ぶことが大切だと思います。
大切な人を亡くした直後の家族は、冷静に複数の選択肢を比較できる状態とは限りません。
だからこそ、
「より良い状態にできますよ」
と勧めるだけではなく、
「現在の状態なら冷却保存という方法もあります。そのうえで、より長く状態を保つことを望まれるならエンバーミングという選択肢もあります」
と伝える。
そのような説明があって初めて、ご家族自身が「何を大切にしたいのか」を選ぶことができるのではないでしょうか。
葬送において大切なのは、ご遺体を可能な限り長く保存することだけではありません。
そのために何を得て、何を失うのか。
そこまで含めて考える必要があるように思います。
「最後のお別れ」のための処置が、最後の時間を奪ってはいないか
人が亡くなってから火葬されるまでの時間は、驚くほど短いものです。
しかし、その数日間には、とても大きな意味があります。
亡き人のそばに座る。
顔を見る。
声をかける。
手を合わせる。
親族が集まり、昔の話をする。
何もせず、ただ同じ部屋で過ごす。
昨日まで生きていた人が、もう返事をしない。
その現実を、頭だけではなく、時間をかけて少しずつ受け止めていく。
人が「別れ」を受け入れていくための大切な時間ではないでしょうか。
もちろん、火葬場の予約が取れないため、葬儀までに日数がかなりかかってしまう場合など、エンバーミングによって長く穏やかな状態を保つことで、かえって十分な別れの時間を持てる場合もあります。
しかし一方で、
お別れをするためのエンバーミングによって、お別れする時間そのものが失われている
としたら、それはどこか目的と手段が逆転してはいないでしょうか。
何を「大切にする」と考えるのか
現代の葬儀では、亡くなった方の身体をきれいに整えることに、大きな価値が置かれるようになっています。
「できるだけ生前に近い姿に」
「少しでもきれいなお顔で」
「変化が進まないように」
その気持ちはよく分かります。
愛する人が亡くなったのですから、できるだけ穏やかな姿で送りたいと思うのは自然なことです。
しかし、その一方で、
読経をすること。
手を合わせること。
追善供養をすること。
亡き人を思い、自分自身の生き方を振り返ること。
こうした「目に見えないこと」には、意義を感じない人が増えているように思います。
目に見える身体と、目に見えない供養
人は、目に見えるものには価値を感じやすいものです。
きれいになった顔は目に見えます。
整えられた姿も目に見えます。
「生前のようになった」という変化も分かります。
けれども、供養は目には見えません。
読経や手を合わせることで、すぐに目に見える結果が顕れるわけでもありません。
だからこそ、
「それにどんな意味があるのか」
と感じる人が出てくるのも、無理のないことなのかもしれません。
しかし、仏教が大切にしてきたものの多くは、もともと目には見えないものでした。
亡き人との縁
感謝
慈しみ
回向
そして、自分自身がこれからどう生きるのかという問い。
供養とは、亡くなった人の身体をどう扱うかだけの話ではありません。
むしろ、亡くなったという事実を前にして、
自分はその人から何を受け取ったのか。
その人との縁を、これから自分の人生の中でどう生かしていくのか。
そう考える営みでもあるはずです。
身体を残すことと、縁を残すこと
エンバーミングは、言ってみれば「身体を残すための技術」です。
もちろん、永遠に残すことはできません。
けれども、変化を遅らせ、生前に近い姿をある程度長く保つことはできます。
では、供養とは何でしょう。
私は、供養とはある意味で、
亡き人との縁を残していく営み
なのではないかと思います。
身体はやがて失われます。
写真もいつか色あせます。
しかし、
あの人に言われた一言。
あの人にしてもらったこと。
あの人と一緒に過ごした時間。
あの人が生きた姿から学んだこと。
それらは、生きている私たちの中に残っていきます。
そして、その人に遺してもらった言葉、生き様によって、自分の生き方が少し変わる。
人にやさしくなったり。
家族を大切にしようと思ったり。
自分の残された時間を考えたり。
それこそが、亡き人との縁を受け継いでいくことではないでしょうか。
仏教は「変わらないようにする」教えではない
仏教には「諸行無常」という教えがあります。
すべてのものは変化します。
生まれたものは老い、形あるものは壊れ、出会ったものとはいつか別れなければなりません。
もちろん、人間の身体も同じです。
生きている間も変化し続けます。
そして死を迎えた後も、身体は変化していきます。
だからといって、
「諸行無常なのだから、遺体を整えるべきではない」
という話ではありません。
亡き人の身体を清めることも、美しく整えることも、丁重に扱うことも、大切なことです。
釈尊自身が亡くなったときも、その身体は丁重に扱われました。
けれども仏教は同時に、
変わっていくものを、永遠に変わらないものにしようとすること
に対して警鐘を鳴らします。
「変わらないでほしい」
「このままでいてほしい」
「失いたくない」
その想いが強くなればなるほど、人はかえって苦しむことになります。
それを仏教では「執着」と呼びます。
亡き人を大切にするとは
では、亡き人を大切にするとはどういうことでしょう。
できるだけきれいな姿に整えること。
それも一つでしょう。
しかし、それだけではないはずです。
亡き人の顔を見ること。
そばに座ること。
手を合わせること。
声をかけること。
お経を読むこと。
思い出を語ること。
感謝すること。
そして、その人から受け取ったものを、自分のこれからの人生の中に受け継いでいくこと。
それらすべてが、亡き人を大切にすることなのではないでしょうか。
だからこそ私は、少し心配になります。
私たちはいつの間にか、亡き人の「姿」を残すことには熱心であっても、亡き人との「縁」を受け継ぐことには、それほど時間をかけなくなってはいないだろうか。
目に見えること、身体を整えることには大きな価値を感じる。
けれども、目に見えない供養については、
「そこまでしなくてもいい」
「形だけでいい」
「意味が分からない」
と考える。
もしそうであるならば、私たちは今一度、「供養とは何か」を考えてみてもよいのではないでしょうか。
何のためのエンバーミングなのか
エンバーミングをすることが悪いのではありません。
しないことが正しいわけでもありません。
大切なのは、
何のためにするのか
ということです。
遠くにいる家族を待つためなのか。
長距離を搬送するためなのか。
大きく損傷した身体を整え、家族が穏やかに対面するためなのか。
それならば、その処置には大きな意味があります。
しかし、亡くなった翌日が通夜で、翌々日には火葬を迎える。
そのわずかな時間の中で、本当に必要なのか十分に分からないまま、
「腐敗するから」「ご遺体の状態を良い状態で保つために」
という理由だけでエンバーミングが勧められ、そのために家族と故人が離れて過ごす時間の方が長くなってしまう。
そうであるなら、私は一度問い直してもよいと思うのです。
その処置は、本当に故人のためなのでしょうか。
本当に遺された家族のためなのでしょうか。
そして、その処置によって失われる時間についても、私たちはきちんと考えているでしょうか。
人が亡くなってから火葬までの時間は、二度と取り戻すことができません。
亡き人の顔を見て過ごせる時間も、やがて終わります。
だからこそ、その限られた時間をどう過ごすのかは、とても大切なことです。
亡き人の身体を、できるだけ変わらない姿にしておくこと。
それ以上に、
変わってしまったという現実の中で、亡き人と向き合うこと。
そして、その人との縁を、自分自身のこれからの生き方へと受け継いでいくこと。
仏教が大切にしてきた供養とは、本来そのような営みなのではないかと私は思います。
エンバーミングが広がっている今だからこそ、私たちはもう一度考えてみる必要があるのかもしれません。
私たちは、亡き人の何を「残そう」としているのでしょうか。
